まじめな話になってしまった

どうも。寒いですなあ。今もやや手がかじかんでて、いつもの怒涛のタイプができませんわ。まあ、そうは言っても、北海道にはかなわんけどな。

 今日は、勉強会みたいなのがあって、昼から行かせていただきました。係長と一緒に行ったけど、行きの電車は爆睡ね。ほんまにあの爆睡なかったら勉強会中やばかったぜ・・・。ふぅ、助かったぜ。
 勉強会の帰りには、別の病院で働いてる初対面の人と一緒の電車になりました。
 あ〜あ、苦手なシチュエーションね。駅までの道では、ほとんど無言で(そのときは、他にも3人先輩方がいたので、まあ無言でも許していただきたい)、やばい感じでした。もうこのままじゃあかん、死んじゃうって思って力を出し切って、駅からは頑張って話しました。
 やっぱり違う職場の人と話すのは楽しいねえ。疲れたけどさ。これは、都税事務所に行った時にも思ったわ。決して会話は弾むわけではないんやけど、聞きたいことや言いたいことはいっぱいあって、ぽつぽつしゃべりながらもいろいろと考えさせられる電車内でした。
 その先輩は、昔は療育系でもはたらいてたらしいけど、今は小児病院ではたらいています。その人がおっしゃるには、療育系でも小児病院でもある意味は似ている。一生障害とともに暮らしていくことになる子どもと、一生病気とともに暮らしていくことになる子ども、その子どもをもつ親の気持ち、そこらへんは、違うところもいっぱいあるけど、似てるところもいっぱいあるとのこと。昔よりも医療が進歩したから、重い病気やからっていって亡くなる子は、かなり少なくなったとのこと。それは、ほんまに嬉しいことやけど、それだけ、重篤な病気と一緒に一生暮らすことになることも意味していて、、、。
 私も最近感じるのは、私にできるのは、この子達の一生のうちの、ほんの最初のほうに関わることだけやっていうこと。この子達は、いずれこの施設を出て行くことになるわけで、出て行くその日までは一緒におれるけど、出て行った後のことにはノータッチなんよね。そして、ここを出て行ったあとの人生のほうが、ここにいる時間の何倍も長いのよね。この施設におってくれれば、守ってあげられるけど、出て行ったあと、その子が幸せに生きていけるかどうかは、もう職員は見守ることはできんのよね。それを見守ることになるのは、親しかおらん。私は、その子の今の状態しか見てないけど、親は、これから就学するときのこと、学校を卒業してからの行き場、親である自分が死んだ後の子どものこと、、、未来永劫のことを考えていくことになるんよね。
 どうしても子どもの味方にたって、親を批判しがちになる発言も多くなる職場やけど、結局その子の一生を見守ることになるのは親やねんから、職員は、親の味方になるべきであって、批判しててもなんにもはじまらんよね。

 というわけで、昨日の字の話の続きなのだが、コンビニバイトしてたとき、近所の習字教室で先生してるばあさんがやってきて、宅急便を私に頼みました。私の書いた字を見て、ばあさんは、「ねえちゃん、達筆だねえ!」言いました。その日を達筆記念日と定めで祝ったことは言うまでもない。字のプロが達筆っていったっていうあたりを皆様要チェック。凡人には分からぬ魅力があるのではあるまいか?書道家になるべきかなあ。
 あと、マギー司郎マギー審司を弟子に採用した理由は「字が汚かったから」という事実をご存知か?マギーの主張によると「字が汚い奴に悪い奴はいない。こいつはいい奴に違いない」とのこと。さすがマギー!主張もマジック!